日本文化

20万人を動員する演劇界の最先端集団「劇団☆新感線」の新たな挑戦

大阪で、大学演劇の仲間と立ち上げた小さな劇団。つかこうへい作品の完全コピーから始まった彼らの演劇活動は、現在まで35年を超えて続き、年間20万人もの観客動員を誇るモンスター劇団として、この国で唯一無二の輝きを放っている。

「劇団☆新感線」。彼らが存在する以前と以後では、日本の演劇史に境界線が引かれ、新感線はもはや「一ジャンル」と言っても過言ではない規模の舞台作品を、創作・上演し続けている。そんな劇集団が2017年春、また新たなフロンティアに足を踏み入れた。日本初、客席が360度回転する劇場「IHI STAGE AROUND TOKYO」(東京・豊洲)での連続公演という、過激なチャレンジだ。その渦中に立ち、屋台骨を支える劇団代表、演出家・いのうえひでのり氏の目にいま、映る風景とは。

スクリーンが自在に動くことに驚いた

――オランダから日本に初上陸した“約1300の客席が360度回転する劇場”。そこで劇団初期の代表作であり、これまでもリ・クリエイションを重ねてきた代表作『髑髏城の七人』を、キャストや演出を変えた5バージョンで通年演出し続ける、という未曾有の企画が進行中です。現地へも視察に行かれたのですか?

いのうえ 行きました。オランダの劇場が開場して以来、ロングラン公演しているヒット作『女王陛下の兵士』と、回転させずに使っている『アンネの日記』の2本を観ました。正直“オランダの演劇界”と聞いても、具体的なイメージは何も湧いてこなかったのですが(笑)、まずは現物を見てみなければ、と。

「客席が回る」ということがどういうことか、自分なりのイメージは持っていました。結果的に現物は、そのイメージを超えるものではなかったし、舞台の奥行きも当たり前ですがあまり深くなく、どうしたものかなと。ただ、舞台前面を覆う形で開閉するスクリーンがあって、それが自由自在に動くことには驚かされました。この劇場の利点は間口の広さでしょうね。新橋演舞場二つ分くらいのドーンとしたセットが建てられますし、そこに加えてスクリーンの映像が加えられますから。

――そこからすぐ、“回転する劇場”でやってみたいと思えましたか?

いのうえ 具体的な作品名ではなく、「一度はやってみたい」という気持ちは湧きました。ただ、主催者(TBS)側からは「やるなら一本ではなく年単位で」と言われてしまい、躊躇しました。僕らには東京だけでなく、大阪や福岡など各地に待っていてくださるお客様がいます。各地での旅公演も入れた全体で70~80ステージということはあっても、1カ所でそれほどの数はこなしたことがありません。また、シングル・キャスト(公演中、一つの役を一人の役者が演じる)ということも、ロングラン公演できるのか不安に思っていた理由の一つです。

――その躊躇を乗り越えさせたものは、いったいなんなのでしょうか?

いのうえ やはり「まだ誰もやったことがないこと」ということに心ひかれました。それにいま、僕らが公演するのにちょうどいい規模の劇場がないんです。いわば常打ち小屋(じょううちごや=いつも公演をする劇場)になっていた青山劇場が、2015年に閉館してからずっと抱えている問題です。他の大手劇場は母体が製作部門を持っているので、そこで公演するためには提携など、何らかの協働が必要になります。そんな状況で舞い込んできた依頼だったので、「これはやれということか」と思い定めたところはありますね。

真っ先に思いついた演目が『髑髏城の七人』

――作品として『髑髏城の七人』を選び、「花・鳥・風・月・極」の5期にわたる上演形態になった経緯を教えてください。

いのうえ 先ほどもお話した通り、シングル・キャストが前提の新感線公演では、一年間同じ作品を上演し続けることが難しくなります。かといって、作品ごとに舞台美術を変えるというのは、費用や手間の点で問題が多すぎます。特に客席が360度回転する今回の劇場では、工事のような作業が必要になるので。

ならば、同じストーリーボード(物語の筋や場面が書かれた絵コンテのようなもの)でも、演出やキャストで変化が見せられる作品をアレンジして上演するのが望ましいと考え、真っ先に思いついたのが『髑髏城の七人』(初演は1990年)でした。この作品は以前にも『アカドクロ』『アオドクロ』(いずれも2004年)、『ワカドクロ』(2011年)などの別名をつけ、座組みや場所を変えて上演を重ねてきた演目です。遊郭や荒野、要塞のような城など、見せ場たっぷりに場面も変わります。

――「いのうえ歌舞伎(新感線の演目の中で、ストーリーラインが明確にある時代劇シリーズの呼称)」の中でも、最も数多く上演されている作品ですね。

いのうえ そうですね。メイン級を含め、どの役も演じる役者が変われば新たなキャラクターとして造形できる振り幅があるため、繰り返し上演できるし、観客にも求められ続けるのでしょうね。役としても若者からベテランまで網羅していますし。

――第一弾の「花」(2017年3月~6月)を経て「鳥」(同6月~9月)が終わり、「風」が幕を開けました。ステージアラウンド(360度回転する今回の劇場)を使ってみての手応えはいかがですか?

いのうえ やはり、やってみてわかることが多いですね。たとえば、シーンの並べ方です。従来の劇場であればセットや道具を動かして場面を転換しますが、ステージアラウンドでは客席が回転して次のシーンへと向かいます。どうしても無駄に回さなければならないことも出てきますが、それをなるべく避け、滑らかに先へと進めるため、この劇場ならではの展開のさせ方を習得しつつあります。それらを加味し、新たな演出に変えている最中ですね。そうしないと、基本は同じ戯曲ですから、自分自身が「この絵、前も観たな」という印象から抜け出すことができません。

――ご自身の、演出家としての手つきを見つめ直すことになりますね。

いのうえ 自分のできること、程度なんて大体わかっていますけどね(笑)。手を変え、品を変え、持てる手管は出し切るつもりで臨まなければ、この企画はやり抜けません。それだけ手を加えても芯が揺るがないのが『髑髏城の七人』という作品の魅力です。ベースには黒澤明の映画『七人の侍』があるのですが、一見、無名無力の人々が集まって巨悪に立ち向かう物語や、歴史の隙間を想像で埋める醍醐味など、日本人の好きなポイントが作品にいくつもあるからでしょうね。

「新感線がやらなければ」という使命感

――この企画に先駆けた2015年、劇団は35周年を迎えました。同じ年の7月には全キャスト歌舞伎俳優で創作した、歌舞伎NEXT『阿弖流為<アテルイ>』を新橋演舞場で上演しましたね。

いのうえ 歌舞伎の世界に入っていっての創作は本当に刺激的で面白かった。『阿弖流為』はそもそも僕らの作品に市川染五郎さんを迎えてつくったものです(2002年上演)が、オール歌舞伎キャストで再創造することで、さらなる可能性を感じられました。今後も続けていきたいと思っています。

——さらに2016年初頭には、ご自身の演劇的ルーツである、つかこうへいの代表作『熱海殺人事件』を、つか氏と共に歩んで来た俳優・風間杜夫、平田満の出演で演出されました。一連の“流れ”をどう感じていらっしゃるのでしょうか?

いのうえ 『熱海殺人事件』は1980年、新感線の旗揚げに上演した作品です。口立て(稽古中、その場で俳優に口頭で台詞を伝えながらつくるスタイル)で稽古するつか作品は戯曲が存在しないので、舞台を録音したテープを手に入れて、そこから写経のように台本を起こして自分たちで稽古しました。そんな作品を、つかさんと同時代を走り抜けた風間さんと平田さんのお二人とやれるのは、そりゃあ感慨深いものでした。でも特別な意味づけはしていないんですよ。“流れ”というか、そういう機会に恵まれただけだと思っています。

新感線の旗揚げ公演『熱海殺人事件’81~野獣死すべし』(1980年)。左が出演しているいのうえ氏。ヴィレッヂ提供

——ステージアラウンドでの新たな挑戦もその流れの中にあるのでしょうか?

いのうえ 使命感のようなものを感じているのかもしれません。ステージアラウンドでの長期公演は、まだ誰もやっていないことで、誰にでもできるというものではありません。だとしたら、これまで一緒にやってきてくれたスタッフを含めた総合力で「新感線がやらなければ」、という気持ちはありますよね。もっとも、現在はちゃんと見届けている感覚がなく、達成感を味わうのはこのシリーズをすべて終えてからになりそうです(笑)。

人との出会いがモチベーションを上げる

――大学時代から本格的に始まった、いのうえさんの演劇人生も37年目を迎えましたが、ご自身の演劇に対する想いや熱量に変化はありますか?

いのうえ 時期や場ごとにある人との「出会い」が、僕が演劇を続けるためのモチベーションとして非常に大きなものなんです。「この人とならアレができるかも」「この人とこういうことがしたい」、あるいは「昔こういうものが好きだったけど、最近観ないな。でもこの人がいればできるんじゃないか」というようなことを常に考えていて、そこから広がることが多い。

最近では、先にも話した歌舞伎界、歌舞伎俳優との出会いは大きな刺激になりました。着物の着こなし、所作ひとつをとっても、いまの日本を生きる僕らとはまったく違うものを持っている。そういうものを取り込んだ舞台を、もっとつくりたいと思います。

――「出会い」を契機に新たな創作への道をひらき、それを連鎖させていく。その大きなエネルギーの源となるものは、なんなのでしょう?

いのうえ 基本は、好きなことしかやれませんからね(笑)。ただ、インプットは必要なので時間の許す限り、舞台や映画を観るようにしています。年間で舞台は80本くらい、映画は100本以上観るでしょうか。ライヴは最近行けていないですけど。

――間断なく稽古と公演をしながら、その数は驚異的ですね。

いのうえ 多いときは一日3作品、根性で観ます。最後のほうは居眠りまじりのこともありますが(笑)、それでも作品が面白ければパッチリ目は開きます。そういう時は楽しみつつも、「コレどこかで使えるかも」というネタ探しに余念はありません。休みはだいたい、そうやって過ぎてしまいます。好きなことを追求していくと、仕事もオフも境目がなくなるんですね、きっと。

細分化が進む最近の演劇シーンの意味とは?

――新感線は間違いなく、日本の演劇の最前線を走る劇集団のひとつだと思います。それを率いるいのうえさんから見て、いまの日本の演劇シーンはどのように見えているのでしょうか?

いのうえ 僕らが演劇を始めたころに比べると、日本の演劇シーンも随分変わりましたよね。僕らも特殊な例だとは思いますが、劇団を設立した当初は松尾スズキさんの「大人計画」、ケラリーノ・サンドロヴィッチさんの「ナイロン100℃」など、方向性はバラバラなのに、どこか「小劇場」という言葉でくくれる感じがしました。でも、最近は細分化が進み、ひとくくりにできないさまざまな枝葉が伸びて、規模もカラーも多様な小集団が非常に増えている感じがします。

――確かに、若くて劇団自体は小さくても、戦略的に活動している集団が増えた気はします。

いのうえ そうですね。若い子たちが賢く立ち回っている印象は確かにあります。インターネットなどのメディアをどう使うかを含め、劇団活動から「どうしたら俳優として売れるか」まで、マニュアル化されている感じもしますよね。僕らは「熱量だけは誰にも負けない!」と、何も考えずに30代くらいまでやってきてしまいました。それではいまの時代、生き残れないのかもしれません。

――演劇界の変化に合わせた方向性の変更なども、考えることはありますか?

いのうえ 結局、僕は自分が本当に面白いと思う、好きなことしかできないんですよ。幸いなことに、それを楽しんで下さるお客様が、ずっと一緒に走り続けてくれています。だから当面は、自分の求めるところに嘘をつかず、つくり続けるしかないと思っています。

――その結果、動員とともに作品や公演の規模も膨らみ、現在はチケットの料金も1万円を超える、決して安くない価格になっています。そのことは、どうお考えですか?

いのうえ 確かに手ごろとは言えない価格です。僕も、歌舞伎を観にいくたび「たっかいなぁ」と思っていた時期がありました。でも、あの舞台の幕が開くまでにどれだけの人が働き、本番中も相当数のスタッフが稼動し続けていることや、歌舞伎俳優の生まれた時からすでに始まっているような修練の時間を考えると、このくらいの対価は払わなければと思うようになっていきました。

古典芸能にたとえるのはおこがましいですが、結局、僕らには支払っていただいた金額に見合った、満足していただける作品をつくることしかできないんです。一人でも多くの方に満足していただけるための努力と研究は、手も気も抜かずに続けていかなければいけないと思っています。

――IHI STAGE AROUND TOKYOでの公演が終わったあと、その先にやりたい企画などはありますか?

いのうえ いやぁ、目の前のことで精一杯です。全公演を終えたら……みんな疲弊しているだろうなぁ。むしろ「やっとシャバに出られる!」と弾けた気持ちになるかも知れない。何せ通う場所が豊洲1カ所なので、ちょっと閉じ込められている感があるんですよ(笑)。豊洲の公演が終われば、お預けだった旅公演もできるわけですし、再び世界が開かれて、新たに旅立てる感覚はきっと気持ちイイんじゃないですかね。

TEXT:尾上そら

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“苔男”、世界を変えるーーエリザベス女王に“緑の魔術師”と称えられた日本人庭師

イギリスのロンドンで毎年5月に開催される「チェルシーフラワーショー」。エリザベス女王を総裁に頂く英国王立園芸協会(RHS)の主催で、100年以上の歴史を持つ、権威ある国際ガーデンショーだ。600もの出展者がジャンルごとに庭園などのデザインを競い合い、観覧チケットの入手は困難を極め、毎年15万7千人もの入場者で盛り上がる。 この伝統と格式を持つフラワーショーで9個の金メダルを獲得し、エリザベス女王から“緑の魔術師”と呼ばれる日本人をご存じだろうか。タイムズ紙命名の「Moss Man(苔男)」のニックネームを持ち、尊敬と親しみを集めている庭園デザイナーの石原和幸氏である。 石原氏の今年の出展作品のテーマは、「御所の庭 / No wall , No war」。この作品に壁のない平和な世界への願いを込めた。 「審査当日にマンチェスターのコンサート会場で自爆テロが起き、人々が不安を抱える中で僕の『No wall , No war』という庭が金メダルをいただきました。長崎出身で被爆2世の自分が、庭を造ってみんなを笑顔にするということに、改めて使命を感じました」 日本全体が庭園そのもので、その中に人が住んでいるような環境を造りたいという石原氏に、金メダル連続受賞までの道のりや、アイデアに満ちたこれからの庭造りを中心にした街造り構想などについてお話を伺った。

ガウディのサグラダ・ファミリアのような庭を造りたい

――石原さんは、ご出身地の長崎で路上販売の花屋からスタートし、「花を買う文化」を広めたといわれる花屋チェーン「風花」で大成功を収められました。その後、大手商社との合弁事業で8億円もの負債を抱えるという経験もされています。まさに山あり谷ありの仕事人生を歩んでこられたわけですが、転機となったのは40代半ばに挑戦されたチェルシーフラワーショーへの出展だそうですね。

石原 当時、花の仕事を続けるには、世界1になるしか、僕には道が見つからなかったのです。もちろん仕事をたくさん受注して、借金を返すことはできますよ。でも返すのに精いっぱいで、自分の夢がそこにはないわけです。

江戸時代、日本は世界で一番庭師が多い国でした。現在、英国は6000万人の人口で約4兆円、米国は2億4000万人でやはり約4兆円のガーデニングの市場があります。一方で日本には1億2000万人以上いるのに、2300億円のマーケットしかない。先進国の中でも最も庭に対してお金を使わない国になってしまったのです。

家庭でもお客様を迎えるときには花を活け替えるとか、学校の先生の教卓には必ず誰かが持参した花がある、というような習慣がありました。それがいつしか失われていったわけです。四季折々の生活の楽しみ方に、かつては世界に誇れる心豊かな文化があったのに、なくしてしまった。僕はそれをもう1度なんとか復活させ発展させたいのです。日本全体が庭園そのもので、その中に人が住んでいるような環境。もしもそうなったら、たとえ核兵器などを持たなくても、あの国は守りたい、大事にしたいと世界の宝物のような場所になる。そして世界中の人が、ぜひ日本を訪れたいと切望するようになるはずです。

――花と緑に、もっと大きな市場規模と文化的バックグラウンドが必要ですね。

石原 例えば、建築でいえばガウディのサグラダ・ファミリアが僕は世界で一番すごいと思う。誰もが知っていて、死ぬまでにぜひ一度見たいと世界の人が思っている。庭にはそんな世界1のものは無いですよね。カナダのブッチャート・ガーデンなどは、旅行好きの人は知っているでしょうが。僕はサグラダ・ファミリアのように世界の人が憧れる庭を造りたいと思っています。

日本の建築の場合、予算のほとんどが土地と建物に使われます。一方、花や緑は「外構」というくくりで扱われ、その予算の割合はものすごく小さいのが現状です。そこを変えるためにはどうしたらいいのかを常に考えています。100億円の建物の予算はあっても、100億円の庭の予算はない。もしも、そんな予算を庭にかけられたら、ひっくり返るくらい素晴らしいものを生み出すことができますよ。

これまで、僕には日本に目標とする人がいなかった。明治時代に七代目小川治兵衛さんという有名な庭師がいましたが、その後は見当たりません。イギリスには、アラン・ティッチマーシュさんというガーデナーが活躍しています。BBCでは朝から晩まで園芸の番組を放送していて、アランさんが出演するのとしないのでは、番組視聴率が大きく変わるくらいの影響力を持っている。大いに刺激を受けました。

庭で集客できる、庭には経済効果がある

――石原さんは2004年にチェルシーフラワーショーに初出展されてから2017年で12度目の出場を果たし、2012年以降6年連続となる計9個の金メダルを受賞されました。この間、部門内1位に贈られるベストガーデン賞とのダブル受賞は4度、2016年大会では最高位のプレジデント賞を受賞するなど、イギリスをはじめとするガーデニング先進国での高い評価を裏付ける、揺るぎない実績をお持ちです。

2016年は『Garage garden』が全出展作品の中で最高賞となる「プレジデント賞」と、5年連続で「ゴールド賞」のW受賞を果した(写真提供:石原和幸デザイン研究所)。

石原 チェルシーフラワーショーで本当に勝とうと思ったら、スタッフの滞在費などすべて含めて5000万円以上の費用がかかります。僕は朝から晩まで日本で花屋と庭師の仕事を続けてお金を貯めたものの、当初は2500万円くらいしか用意できず、自宅を売って費用を捻出しました。

こうして背水の陣で臨んだ初出展の2004年では、シルバーギルトメダルをいただきました。点数制なので、その時は金メダルの該当者がいなくて、実質的にシルバーギルトが1位だったのです。金メダルをもう少しで掴みかけたことで、「あ、行けるな」という感覚を得ましたし、イギリスではメディアに取り上げられましたので、スタッフともども大きな成果を掴み、やりがいを感じながら帰国しました。

ところが、日本に帰って来ると、何ひとつ話題になっていなかった。ということは、金メダルじゃないとダメなのだと思って、またお金を貯めてチャレンジすることにしました。もう売る家も無いので盆も正月もなく朝から晩まで庭を造って、スポンサーを集めて……。

こうして2度目に参加した2006年に、初めて金メダルとベストガーデンをダブル受賞しました。しかし、それでも日本では話題にもならないわけです。

そこで僕がやっと気付いたのは、「チェルシーフラワーショーはすごいんだよ」ということを僕自身が日本で伝えていくしかない、ということでした。また、チェルシーで金メダルを獲得したからといって日本で仕事はもらえないわけですよ。それで、「庭師って何なの?」と自問したときに、「最高の営業マンじゃないとダメなのだ。これはサービス業なのだ」ということに気付きました。

例えば、庭全体のテーマやコンセプトを明確に依頼主に提案でき、1つひとつのパートの役割をきちんと説明できるかどうか。また、その庭を維持管理し続けることで、長期的な売り上げにつなげ、きちんとした経済効果を出さないといけない。それが庭師の世界的なビジネス基準だと思っています。

人は感動するものを見た瞬間に思わず「えーっ!」とか、「うわぁー!」とかいう声を上げます。素晴らしい庭に出合ったときも同じで、この事実がとても大事だと思っています。本当に美しいものには、人は「きれい」などと言わず、ただ「えーっ!」と声を上げながら見とれたり、ついスマホのカメラを構えたりする。そういう庭を目指したいと僕は思います。

とにかく僕は「チェルシーはすごいんだ」と言い続け、たくさんの方にチェルシーフラワーショーを見てもらい、イギリスと日本の架け橋になっていきたい。そして少しずつ「庭で集客ができるんだ」「庭には経済効果があるんだ」ということを、企業などの依頼主に具体的に数字で示していきたいのです。

――チェルシーでは、石原さんのお庭のどのようなところが評価されているのでしょうか。

石原 イギリス人は作品を見るときに、まずコンセプト、哲学をものすごく大事にします。僕の最初の庭は「源」というテーマでした。どういうテーマにするか迷っているとき、当初は過去のチェルシーの作品群を眺めてはいろいろ考えながら、パーゴラ(つる棚)にバラがあって、みたいなイングリッシュガーデンを思い描いたりしていました。でも、どうも違うなと。

そんな折、熊本の白水という村に行く機会がありました。水が湧き出る名水の里として有名な所です。透明な水が湧く源泉で砂が動く様子を見て、それこそ僕は本当にぞくぞくするほど感動したのです。

出展した「源」では、雨が降って森が水をキープして、そして湧いてくる水が川になって流れて海に注いで、また蒸発して雨が降る・・・という大きな循環の中に人がいることを意識して表現しました。僕が白水の水を見てものすごく感動した、それを伝えたかったのです。ぐるぐる模様で表現した波紋には、翌年以降もこだわっています。

れからもう1つ、長崎の出島に花畠(庭園)というところがありますが、ヨーロッパの人々が日本で植物を集めて、ここからイギリス、オランダ、フランスへと送りだしたといいます。今、ヨーロッパで見られるモミジ、ツバキ、ツツジなどは日本原産のものですし、カサブランカも山百合を品種改良したものなので、そういう植物の源ということも意識しました。

僕の生家は、爆心地から約3キロの長崎市三原町にあったのですが、目の前の丘が爆風を遮ってくれました。僕が小さい頃、家のまわりの景色はものすごくきれいでした。僕もクリスチャンですが、そのあたりは隠れキリシタンの里で、和風の家に十字架やステンドグラスがありました。松に石畳といった組み合わせも僕の中では当たり前のものでした。だから日本人なんだけど、原風景の中に西洋の文化も少しだけ組み込まれていたわけです。

被爆2世でキリシタンの僕が、庭師になって世界に庭を広めていく。その庭のおかげで少しでも平和になればいい、というふうに自分の中で妄想が膨らんで、「これはチェルシーフラワーショーに出て、世界1になるしかない」と、そんな思いに至ったのです。

都会にフクロウがすむ庭。そんな魔法が始まっている

――その勢いで、バッキンガム宮殿に電話されたそうですね。

石原 最初は、チェルシーフラワーショーに出展したくても、どこに申し込めば参加できるのか、ツテもないし皆目見当がつかない。そこで、考えた末にバッキンガム宮殿に電話して、「チェルシーフラワーショーに出展したいが、エリザベス女王はいらっしゃいますか?」とジョーク半分で尋ねたところ、電話に出た方がユーモアがあって、「ごめんなさい、ここは担当が違うの」と問合先を教えてくれました。女王陛下に電話するとか、そんなことする人間などいないじゃないですか。だけどそこはあえて当たって砕けろ。「チェルシーで優勝するんだ!」と無理やり引きずり込んだ社員たちへの手前もありますし、「電話10回ぐらいしたらどうにかなるやろ、なんか分かるやろ」というところからのスタートです。

僕はそれだけでもう優勝したような気持ちになったものです。担当が分かったから、その担当を落とせば参加できる、とね(笑)。

――そして、今では、エリザベス女王から「緑の魔術師」と評価をいただくに至りましたね。

石原 チェルシーフラワーショーというのは園遊会の要素もありますから、エリザベス女王にお見せする庭を造るわけです。王室の方々も公務ですが、出展されている600もの庭の中でも、私の庭は毎年見ていただいています。王室の皆さんは、現代的な雰囲気の作品の中にも、よく見ると苔や盆栽など、伝統的な日本をイメージさせる植物を多く使用する僕の庭がお好きなのだと自分で勝手に自負しています。

「あなたは緑の魔法使いね」とエリザベス女王(写真提供:石原和幸デザイン研究所)。

チェルシーに出続けてみて、つくづく感じるのは、たとえ小さな庭でも何十万人の人をしびれさせることができるのは、やはりメンテナンスの力によるものだということ。花や緑は、朝昼晩と変化します。落ち葉が飛んでくるし、こまめに掃除しないといけない。40名のスタッフがいて常に最高のコンディションに保つようにしています。審査が終わった後もメンテナンスを続けます。また、会場では庭の後ろは見せる場所ではないので、普通は何も手を加えません。でも、僕は庭の後ろ側も徹底的にきれいにしている。そうするとBBCがあえて後ろを撮ったりしますね。最近では、皆さん裏を見に来たりするくらいです。僕の考えとして、メンテナンスがどれだけ大事なのかということをいつも伝えています。庭というのは、メンテナンスによって美しくあり続けるから人を惹きつける。そして、造ったときから、常に進化していくものなのです。

石原氏お気に入りのシャツはポール・スミスのBUNNY RABBIT(上)。2016年チェルシーフラワーショーの石原氏のガーデンに立ち寄ってくれたポール・スミス氏(下、写真提供:石原和幸デザイン研究所)。

東京・恵比寿にあるウェスティンホテル東京が、20周年を迎えるにあたって庭造りを依頼してこられました。モミジやアジサイなどをふんだんに使い、季節感のある庭を造らせていただいた。完成してから3カ月でこの庭にフクロウがすむようになりました。東京にはあちらこちらに公園や植物園などがあり、けっこう森も緑も水辺もある。水辺にはフクロウの餌になるヤモリやカエルがたくさん生息しています。ウェスティンホテルでは縁起の良いフクロウが話題になって、結婚式を挙げるカップルも増えてきています。

庭にはたくさんの種類の植物を植えることで多様な生態系が出来上がります。日本原産の植物であれば、メジロやシジュウカラの餌になります。単に庭に花が咲くだけではなく、鳥が飛んできたり蝶が飛んできたりすることの心の安らぎ、美しさや季節感、それが大事だと思っています。大都会の中でもそういった環境が身近にあったら、人間だって過ごしやすいはずです。

石原和幸デザイン研究所には、かわいいリスザルも住んでいる。

例えば、渋谷にもっと緑が増えれば、街の温度も下がるでしょう。木々の緑に鳥や蝶を惹きつける花や実がつけば、素晴らしいですよね。すでに渋谷駅のハチ公口前を緑化しました。看板を出し、そこから得られる広告費で私たちがメンテナンスをやらせていただいています。公園通りではガーデニングの全日本選手権をやりましょうと声をかけ、審査委員長を渋谷区長にお願いし、都知事にも起こしいただいて、今年の5月に開催しました。民間企業はPRに利用し、庭師は技術を競い合う場として活用しています。

このプロジェクトを渋谷から品川などへ展開しようとしているところです。こんなふうに緑のプロジェクトをどんどん広げていけば、東京は美しい緑の都市として、世界に打って出ることができるはずです。

――花と緑で街や町を変えるために、いろいろなアイデアを実践されていますね。

石原 広島県の庄原市は人口3万7000人弱の市で、財政が逼迫していますが、棚田があって、古い家が残っていて、田んぼをやっている人がいて、その里山風景こそが財産です。そこで僕は「どなたか1人庭に狂ってほしい。1人いれば伝染する」という話をしました。佐藤さんという会社員の女性が手を挙げ、ご自宅の小さな庭を朝に晩に、丹精込めて美しく造り上げました。それが50人くらいの人に伝染し、それぞれが庭をきれいにして「庄原さとやまオープンガーデン」が始まりました。この町に人口の倍の7万人もの人々が訪ねて来るようになった。オープンガーデンが市の第1の産業になったのです。若い人たちが I(アイ)ターンで移り住むようにもなりました。

ガーデンという言葉は、ガードしてエデンを作るという意味で戦争から始まった言葉とも言われます。「壁を造ることが平和になるのか?」と疑問を持ったときに、その対極に、『御所の庭 / No wall , No war』でテーマにした平安京の御所の庭があると考えました。塀が低く造られており、攻められるという発想がなく、オープンである、というところに着目しました。塀を低くして開かれた庭にすることが平和につながると捉え、壁も床もガラス張りの庭を造りました。

2017年にゴールド賞を獲得した『御所の庭 / No wall , No war』(写真提供:石原和幸デザイン研究所)。

そして、来年の僕のテーマは「ひとりのために」というものを考えています。まず、身近なひとりを大事にする愛、それはかけがえのないものであり、その大事な「ひとりを泣かせるくらい感動させる庭」を考えています。大好きな人のために庭を造って、その大好きな人の延長線上にみんなが笑顔になっていくというテーマの庭になりそうです。

これまでも、これからも、花と緑が僕の絵の具。どれだけ大きく感動を呼ぶような絵を描けるか、生涯の仕事として追求していきます。

TEXT:伊川恵里子

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日本語で科学を学び、考えることができる幸せーーノーベル化学賞の白川英樹博士が語る先人たちへの感謝

ノーベル化学賞(2000年)を受賞した白川英樹・筑波大学名誉教授は、科学や芸術などの学問を日本語で学び、考えることの大切さを説いている。「言語にはコミュニケーションの道具としてだけでなく、考えるための道具としての役割がある。人は母語で学ぶことによって、より核心に迫った理解ができる」と語る。 日本人は古来、大陸の漢字文化を学び、江戸期以降は欧米の科学知識を意欲的に日本語に翻訳して学問体系をつくり上げてきた。現代の日本人が、世界の学問を容易に母語である日本語で学ぶことができるのは、先人たちによるこうした血のにじむような努力のおかげなのだ。 白川氏はノーベル賞を受賞後、「日本語で自然科学を学べる幸せ」についてずっと考え続けてきた。日本人が日ごろ気付いていないこの恩恵は、歴史上どのようにして可能になったのか――昨今の英語教育早期化への見方なども含め、その思いを伺った。

意表突かれた質問、「なぜ日本にはノーベル賞受賞者が多いのか」

――白川先生がこの問題への関心を深められるようになったきっかけは、ノーベル賞発表の際のある出来事だったとお聞きしました。

白川 ノーベル賞受賞の一報は2000年10月10日の夜9時半ごろ、わが家に通信社からかかってきた電話でした。その後も電話が鳴り続け、テレビでもテロップが流れました。しかし、ノーベル財団から正式な連絡は何もないので、その夜は電話線を外して寝ることにしました。 翌早朝から報道陣が家を取り巻き、近所迷惑なので、7時ごろから玄関先で応対しました。午後からはインタビューや取材を受け、来宅したスウェーデン大使館の人からやっと正式に受賞を告げられました。

その取材があらかた終わった後、香港の経済誌の特派員が帰り際に、「ところで」と1つ追加質問をしました。「欧米諸国に比べると、日本人の受賞者は少ないけれど、アジア諸国と比べると断然多い。それはなぜだと思うか」というものでした。

意表を突かれた私は、とっさに「日本人は日本語で書かれた教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」と答えました。頭の中にあったのは、アジアではインド、シンガポール、マレーシアなどは英国の、ベトナムはフランスの、インドネシアはオランダの植民地になったことから、各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしているということでした。つまり学ぶための言語と、ふだん生活で使う言語(母語)が違う。この2つの言語は本来、学問を究める上で別々であっていいはずがないのです。日本は欧米の植民地にされずにすみましたから、母語で学問ができるアジアでは珍しい国なのです。

丸谷才一氏の新聞コラムを読んで自説の正しさを実感

――とっさに答えられたことが、先生のその後の思索のテーマになったわけですね。

白川 そうです。その後ずっと、もし私の独りよがりな考えだったら困るなと思っていました。すると2002年7月31日の朝日新聞文化欄に、作家の丸谷才一さんが書いた「考えるための道具としての日本語」という文章が載りました。言語を「思考のための道具」と「伝達のための道具」に区別し、思考のための道具としての日本語がなおざりにされていると警告を発するコラムでした。これを読んで、私があの日特派員に言ったことは正しかったのだと思いました。

自然科学に限らず、人文科学、社会科学、芸術を究めるには、自然や人間をしっかり観察して考えなければなりません。私たちは母語である日本語を思考の道具として使い、そのことを実践しているのです。

ノーベル賞受賞者の出身国と人数を調べて、どこで学び研究してきたか、考えてみました。2000年時点でのアジアにおける受賞者(物理学、化学、医学・生理学の3賞)は、日本が6人(湯川秀樹、朝永振一郎、江崎玲於奈、福井謙一、利根川 進の各氏と、私・白川英樹)で、母国の大学で学び研究した人たちです。他はインド1人、中華民国3人、パキスタン1人ですが、母国で学び研究したのはインドのチャンドラセカール・ラマン氏(1930年物理学賞)だけで、残る4人は米国や英国での研究成果が受賞対象です。つまり母国で学び研究した受賞者の比率は日本と他のアジアでは、6対1なのです。

それ以降、日本は16人が3賞を受賞しましたが、他のアジア諸国は中国人の屠呦呦(ト・ユウユウ)氏(2015年医学・生理学賞)だけ。通算するとその比率は22対2に広がります。この事実からも母語でしっかり学び、深く核心を突く考えを身に付けることの大切さが分かります。

「教科書は英語、日常生活は母語」というアジアの高校生

科学技術振興機構が行う「さくらサイエンスハイスクール」という事業では、アジアの約50の国と地域から高校生を日本に1週間招待します。私はそこで、ノーベル賞の受賞対象になった導電性高分子を使ったEL発光素子を作る実験教室を開いています。

高校生に「あなたの国では物理・数学・化学を何語で習っていますか?」と聞くと、インドの高校生は「教科書も先生の講義も英語です。でも、ふだん友達や家族とはヒンズー語で話します」と言います。学問のための言語と生活のための言語が別々なのです。マレーシアもシンガポールもブルネイなどもそうでした。

しかし、生活に立脚した言語ではなく学問のための言語で、新しい学問を創造することができるのだろうか。ただ浅く理解するだけで終わってしまうのではないか、と疑問に思いました。科学や芸術を創造し実践するということは、生活と一体化した行為なのではないでしょうか。

――先生は米ペンシルバニア大学で1年間研究生活を送られ、その間に受賞対象になった研究成果を上げておられますが、思考する時はやはり日本語だったのですか。

白川 会話は当然、英語ですが、その内容は頭の中で日本語に翻訳していました。話したことを日本語で覚えているのに、英語のセンテンスは覚えていないという奇妙な経験をしました。バイリンガルでない人は、どうしても無意識に翻訳というひと手間かけて母語で考えているのだと思います。

杉田玄白の「蘭学事始」が語るオランダ語翻訳の苦労

――科学をはじめ多くの学問を母語でそのまま学べる国は、世界にそう多くありません。その点、日本人は恵まれていますね。

白川 そうです。日本は古くから大陸の漢字文化を取り入れて昇華させ、万葉仮名を作り、漢字(表意文字)と、ひらがな・カタカナ(表音文字)を組み合わせた言語体系を作り上げました。それ以前の歴史記録と言えば、古事記の稗田阿礼のような人物が神話や伝説を口伝えで伝承するしかなかったのです。

江戸時代には長崎に入って来る欧米の科学知識を懸命に日本語に翻訳しました。杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らがオランダ語の医学書『ターヘル・アナトミア』を4年かけて翻訳し、『解体新書』(1774年)を出版しました。杉田玄白は後日、『蘭学事始』(1815年)に当時の苦労を、「櫂(かい)や舵のない船で大海に漕ぎ出したよう」と書き残しています。

「鼻はフルヘッヘンドするものなり」とあるが、辞書がないので誰にも意味が分からない。長崎で入手した資料に「木を切ると跡がフルヘッヘンドとなる」などの用例があり、「堆し(うずたかし)」(*)の意味だとようやく分かった。その時の嬉しさといったら何に例えようか。連城の璧(玉)を得た(素晴らしい宝石を手に入れた)気持ちだった。   (*:うず高く盛り上がっているの意)

江戸時代には各藩に藩校があり、窮理学(物理学)や化学の知識を教えるところもありました。数学の分野では、和算(日本独自に発達した数学)の祖として知られている有名な数学者の関 孝和だけでなく、実に多くの町人や農民が和算を学び、自ら解いた数学の難問を絵馬や算額にして神社などに奉納しています。

江戸末期に来日した欧米人たちは、農民が和算を学び和歌を作り、能を舞うことに心底驚きました。当時の日本人の好奇心や探求心・向学心は、ちょっと考えられないほどのすごさで、識字率の高さは世界一だったといわれています。

酸化、炭素、水素、細胞――現代に生きる宇田川榕庵の工夫

――先生は津山藩の藩医だった宇田川榕庵(1798年~1846年)の業績にも注目されていますね。どういう人物だったのでしょうか。

白川 津山藩は当時とても先進的な藩で、宇田川榕庵は化学と生物学に非常に興味を持っていました。英国の化学者ウィリアム・ヘンリーが英語で書いた化学の教科書が、ドイツ語からオランダ語に翻訳されて長崎にもたらされ、それを和訳して「舎密開宗(せいみかいそう)」全21巻を出版しました。その中で彼は、酸素、水素、窒素、炭素、白金、元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語を生み出しました。生物学では細胞や属といった用語も考案しています。どの単語も見ただけでその意味が分かり、視覚的にイメージできるよう、漢字の組み合わせが実に的確に工夫されているので、現代の私たちもそのまま容易に理解でき、利用できるのです。

吉野政治・同志社女子大学教授は、「宇田川榕庵による植物部位名の特徴」という論考を著しておられます。それによると、榕庵は近代西洋植物学についても、根、幹、茎、枝、葉、花、果実などの部位を、その機能によって更に細かく分け、内部構造にも名前を付けています。これは薬草の学問として発展してきた本草学とは大きく異なる点です。

このように近代西洋植物学を日本に初めて紹介したのが宇田川榕庵だったのです。解体新書もそうですが、日本人にはもともと、外観だけでなく内部の仕組みも正しく観察しようとする考え方や精神風土があったのではないでしょうか。

――こうした西洋の知識の吸収・翻訳に努める姿勢は、明治になっても引き継がれていますね。

白川 そうです。外国人を2690人も雇っていたのはその1例です。高給取りの外国人をこれほど大量に雇うエネルギーが一体どこから湧いてきたのか。

私たちの先人は、江戸時代から明治維新を経てあらゆる学問分野で、オランダ語・ドイツ語・英語などの文献と取り組み、思考を巡らせて的確な日本語に翻訳してきました。私たちの歴史や文化は、そうした言葉と概念によって、今の時代へとつながってきているわけです。現代の日本人は、こうした先人たちの大きな恩恵に浴していることを忘れてはいけません。

英語は大事だが、まず日本語をしっかり学んでほしい

――最近は英語を使う機会が増え、政府も英語教育の早期化を進めています。2020年には「小学3年からの必修化」や、「小学5年からの教科化」を実施する方針です。子どもたちへの英語教育については、どのようにお考えでしょうか。

白川 確かにグローバル化はますます深化しており、世界共通語である英語をコミュニケーションの道具として学ぶのは当然のことだと思います。

しかし、それは母語であり日本の公用語である日本語をしっかり身に付けた上でのこと。まず日本語でしっかり考え、理解し、それを的確に伝達できるようにする。日本語で論理的に説明できない人が、英語で論理的に説明できるはずがありません。

繰り返しますが、今や英語はコミュニケーション言語としてとても大事です。学ばなくてよいということでは決してありません。ただ、完璧な発音のバイリンガルになることを望むなら別ですが、大学生になってからでも、必要になった時点で真剣に学べば、1年もあれば何とかなるものです。科学者であれ、ビジネスマンであれ、日本語がしっかり身に付いている人のほうが、より一層核心に迫った理解ができるし、発想の自由度がより大きいと感じています。

興味や好奇心を持ってこそ創造性を発揮できる

――先生はある大手企業が戦後まもなく創設した子どものための科学教室において、塾長を務められ、子どもたちの「科学する心」の育成に力を入れていらっしゃいます。そこではどういった活動をされているのですか。

白川 毎年夏に小学5年生から中学2年生までの約30人を募って、指導役の小・中学校の先生7人と一緒に長野県や新潟県の自然豊かなところで5泊6日の共同生活をします。

創造性を発揮できるかは、対象にどれだけ興味や好奇心を持つかだと思います。いったん興味を持てば、人は自分で発見する能力を持っているのです。

ではどうやって興味を持たせるか。私は先生たちに「学校教育ではないので、子どもに答えを教えないでほしい」とお願いしています。子どもたちが昆虫やきれいな花を見つけた時、先生が「これは○○だよ」と教えるのではなく、「これは何だろうね、面白いから調べてみよう」と言って、好奇心を引き出してほしいのです。先生が「面白い!」と言ってくれたことが、子どもたちの励みになり、自分で図鑑や辞典で調べるのです。

先生たちに事前に読んでもらっている本があります。米国の生物学者レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』です。彼女は『沈黙の春』という著作で化学物質による環境汚染にいち早く警鐘を鳴らした人ですが、幼い甥と一緒に自然を探索し、発見する喜びをつづっています。彼女は甥の感性や好奇心を育むために、決して自分からは教えません。ぜひ、お父さんやお母さん方に読んでほしい本だと思います。

実物を見る、よく観察する、よく記録することの大切さ

――ご自身も子ども時代は岐阜県高山市で過ごされ、自然に大変興味を持たれたそうですね。

白川 子ども時代は植物や昆虫にとても興味がありました。植物は虫に食べられるものだと思っていたら、逆に虫を食べる植物があることを知り、ショックを受け、がぜん好奇心がわいてきました。中学生の時に、近くの高校で催されていた文化祭に行った折りに、生物部の高校生が採集してきた食虫植物のモウセンゴケが展示されているのを見た時は、ずっと目に焼き付いて離れなかったことを覚えています。

こうした体験をもとに、科学教室の子どもたちには、実物を見る、よく観察する、よく記録することの大切さを教えています。

私は大学では高分子化学を学びました。その後、「導電性高分子」の合成だけでなく、高分子物性、とりわけ畑違いの物性物理も勉強することになりましたが、いろいろなことに興味があったので抵抗感はまったくありませんでした。新しい道を切り開くには、あえて異分野にも挑戦することが大切だと思っています。

TEXT:木代泰之

日本語で科学を学び、考えることができる幸せーーノーベル化学賞の白川英樹博士が語る先人たちへの感謝Mugendai(無限大)で公開された投稿です。

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伝統産業を現代の感性に和えて、次世代につなぐ。 29歳女性社長の「感性の経営」

日本の伝統産業の衰退が叫ばれて久しい。織物や漆器など、伝統産業の象徴といえる京都市でも事業者の半数超が生産量の減少に直面し、6割近くが後継者不足に悩んでいる実態が明らかになっている。 そんな逆風の中、職人技や伝統文化に魅せられ、その魅力を次世代につなぐために活動する若き女性経営者がいる。 「株式会社和える」代表の矢島里佳氏は、大学生だった2011年春に同社を立ち上げ、伝統産業と赤ちゃん・子どもの市場を掛け合わせるという常識にとらわれない発想で立ち上げた“0から6歳の伝統ブランドaeru”をはじめとする、様々な事業を展開している。経営者であると同時に、商品開発のプロデューサーであり、多数の講演やイベントも手がける伝統産業の魅力の発信者でもある。弱冠29歳の女性社長の「顔」は実にさまざまだ。 伝統産業を守るのではなく、現代の感性と和えて、次世代につなぐ――。そんなポリシーを持ち、目先の数字ばかりを追わず、長期的な視点と感性を重視する。穏やかな口調とは裏腹に、独自の経営哲学をぶれずに貫く矢島氏に、話を伺った。

利益は最終目標ではない、「和える」の意義とは

――会社名の「和える」という言葉にまず目が留まってしまいます。名は体を表す、ともいいますが、どのような想いがあるのですか。

矢島 「和える」は日本の伝統産業を次世代につなぐことを目的としています。それを実現するために、私たちが大切にしている物事へのアプローチが、和えるという手法なのです。新しいものが、今あるものの形をすっかり変えてしまうのではなく、それぞれ形を残しつつ、お互いの魅力を引き出し合いながら新たな価値を生み出す手法です。「ほうれん草のごま和え」は、素材の味は残りながらも、合わさってより美味しくなりますよね、まさにあのイメージですね。

伝統産業の職人さんたちは、長年にわたり受け継がれた素晴らしい技術を持つ一方で、今のやり方では事業が続かないという危機感も持たれています。職人さんたちの技術を学んで、今を生きる私たちの感性と和えることで、新しい何かを生み出せると考えています。そして、私たち「和える」をきっかけに、ただ伝統産業について知ってもらうだけでなく、その裏にある先人の智慧(ちえ)や、ていねいな日々の暮らし方などを意識するような価値観の変化が生まれることを、なによりやりがいに感じています。

――起業から1年後に、“0から6歳の伝統ブランドaeru”を立ち上げ、さまざまなメディアで取り上げられていますね。伝統産業にとっては、売り上げの増加や販路開拓が急務の状況ですが、数字面での手応えは感じていますか。

矢島 日本のビジネスはつい数字にばかり目が行きがちですが、「和える」は利益の追求を最終目的に据えていません。もちろん会社である以上売り上げも大切ですが、「売ること」を最上位に設定すると、どうしても大人の事情をくんで、妥協した商品ができ上がってしまいます。それでは短期的に売り上げが上がったとしても、長い目で見て、商品の本当の魅力や職人さんの技術が伝わりきらないまま、一過性で終わってしまいます。 

伝統産業を元気にする「即効薬」は簡単には見つからないというのが、私の考えです。急がば回れ。多少時間がかかったとしても、丁寧にお伝えし、一人でも多くの方に知っていただける仕組みを作ることが大切です。ただ、職人さんたちから、私たちと仕事をしたことで「新たに雇用を増やせた」などという話を聞いたときは、素直に嬉しいですね。

幼少期から伝統産業の魅力に触れてもらい、循環を生み出す

――「日本の伝統を次世代につなぐ」というテーマの中で、なぜ赤ちゃんや子どもの市場と伝統産業を掛け合わせることにしたのでしょうか。

矢島 伝統産業が衰退する大きな理由として、私たち日本人が幼いころから伝統産業品に触れる経験が少ないからではないかと考えました。赤ちゃんの頃から、暮らしの中で触れていただき、その質感やぬくもりを体感していると、やがて大人になったとき、暮らしの中で使うものとして、丁寧に作られた伝統産業品が選択肢に入るという良い循環が自然に生まれるのではないかと。

私自身、千葉県のベッドタウン育ちで、周りも比較的新しい住民の方が多く、おじいちゃん、おばあちゃんが身近にいて、古いものや自然に触れられる環境に憧れていました。さらに中学・高校で茶華道部に入って、日本の伝統文化により興味を持つようになりました。

ジャーナリスト志望だった19歳の頃、とあるご縁で大手企業の会報誌に伝統産業の職人さんたちを紹介する記事を書かせていただく機会に恵まれ、全国の職人さんたちを取材して回ったのですが、その技術の高さと智慧に心から感動しました。同時に、なぜこんな魅力的なものが衰退していくのだろうと、強い疑問を感じたのです。

そんな中、愛媛県の砥部焼(とべやき)の工房を訪ねた時、器に絵付けがされた子ども用の作品に目が留まりました。お客さまに頼まれて作られたそうなのですが、私は「これだ!」と思いました。当時は、伝統産業とベビー用品を組み合わせた商品の市場がありませんでしたし、生まれた時から伝統に触れていれば、自然と伝統を知ることができますよね。日本では出産祝いという風習は定着しているので、職人さんが心を込めて作ったお祝いを贈られた赤ちゃんが大人になった時に、また同じように、出産お祝いには日本の伝統を贈るという文化が育まれたら、単にモノを贈るのではなく、想いを贈ることにつながります。そのような事業のプランを考え、ビジネスコンテストに出したところ、優秀賞をいただくことができ、賞金を資本金に、「和える」の起業に至りました。

――22歳での起業は大変な勇気が必要だったと思いますが、周囲の後押しもあったのですか。

矢島 起業を決意した当時は、周囲から「伝統産業品を若い人が買うとは思えない」と言うお言葉をいただいたこともあります。ただ、私には大人たちが伝統産業の魅力や、つなぐことの大切さに「気づいていないだけだ」という考えが強くありました。戦後、経済を必死になって発展させてくださった先人たちは、文化や伝統を置いてこざるを得なかったのだと思います。

ならば、先人が築いた豊かさの恩恵を受ける私たちは、文化や伝統を今の時代に引き戻す役割を担わなければいけないし、それができるぎりぎりの世代だと思っています。経済だけを優先するのではなく、文化や伝統を引き戻しつつ、これらを両輪として日本経済を発展させるのがこれからの経営者のあるべき姿ではないかと考えています。また、バブル崩壊以降のいわゆる「失われた20年」に生まれた私たちの世代は、景気が上向きだった頃を知る先人が考えているほどの経済的な不自由さは感じていないかと思います。むしろ、「価値がある」と考えるものにはしっかりとお金をかけるように、伝統産業に対する考え方についても少しずつ良い変化が起きているのではないでしょうか。

――その理想を具現化するためには、儲けが第一じゃないとしても、やはりファンがつかないとという現実があると思います。身近に売っているベビー用品と、どう差別化を図っているのでしょうか。

矢島 なぜこのデザインにしたのか、なぜこの技術を活かしたのか、1つひとつに妥協せず、意味を大切にしています。そのため、1つの商品を生み出すのに長い場合は3〜4年をかけることもありますが、これも私たちのこだわりです。

例えば、青森県の「津軽塗り」と福岡県の「小石原(こいしわら)焼」、沖縄県の「琉球ガラス」でお作りしている『こぼしにくいコップ』という商品は、段差をつけることで、手の小さな赤ちゃんや子どもが両手で持った時に、指で支えやすく落としにくい形にしています。aeruの商品は、大人になってからも、ずっと使えるように、デザインをあえて子ども向けに可愛いらしくするわけではなく、その土地の伝統の技術を活かしながらシンプルに仕上げています。また、陶器や磁器の『こぼしにくい器』は、作る際に、焼くとガラス質に変化する釉薬(ゆうやく)を掛けるのですが、底面にはあえて釉薬をかけず、素焼きのままにしていて、産地ごとに異なる原料の石や土の色や手触りを、子どもが感じ取れる工夫をしています。

『こぼしにくいコップ』シリーズは、コップやおちょことしてなど、子どもから大人まで使えるデザイン

愛媛県の職人さんと作った『愛媛県から 手漉(てす)き和紙の ボール』は、籐(とう)という植物で編んだボールに和紙を何度も漉いて作るのですが、自然と繊維が絡まなかった部分に、指が入るほどの大きさの穴が開いています。子どものころに障子に指で穴をあけた経験のある方も多いと思いますが、今は障子のある家が少なくなり、和紙に触れる機会のない子どもたちも増えてきました。和紙のボールを投げたり、好きなように穴をあけたり、自由に遊んで和紙の感触に親しんでもらいたいと考えています。そして、大きくなったら、インテリアとして、そばに置いていただけるようなデザインにしています。

インタビューが行われた“0から6歳の伝統ブランドaeru“の東京直営店「aeru meguro」(東京・目黒)の店先の『愛媛県から 手漉(てす)き和紙の ボール』

――子どもは無邪気にモノを壊します。手間をかけて作った焼き物をニコニコしながらガシャンとやってしまいそうですが、そのあたりのリスクはどう考えていますか。

矢島 「壊す」という経験は決してリスクではなく、とても大切なこと。ものは丁寧に扱わないと壊れてしまうということを学ぶ大事な機会と捉えています。器やコップをもし割ってしまった場合でも、金継ぎや銀継ぎという方法で、お直しをさせていただいております。和紙のボールも、和紙の漉き直しという形でお直しすることができます。子どもたちにとっては、割れたり、壊れたりすることを知ることもお勉強のひとつ。「壊れたら捨てる」の一択ではなく、直しながら長く使えるものだと知っていただきたいですし、長く使い続けることで、ものを大切にする心を育むことができればと思っています。

「待つ」経営で大切な視点とは

――小さな子どもが大人になったら、という発想はとても根気がいる気の長いことです。あらゆるもののIT化によってスピード感が求められる世の中で、じっくりと腰を据えていますね。

矢島 経営においては、「待つこと」が大切だと考えています。こういう社会を作りたいというビジョンを常に描き、時代や世の中の空気がそれに合う瞬間が来るまで、アンテナを張りながら待っています。描いた図のパズルのピースを集めるように、準備はしっかりしておいて、機が訪れたら一気に動けるようにしておきます。このようなスタンスでこれまで、日本全国の数百人の職人さんたちとの関係性を築いたり、様々な事業を立ち上げたりしてきました。

徳島県の本藍染職人と打ち合わせを行う矢島代表(写真提供:株式会社和える)

――伝統産業とは真反対にあるとも取れるITについては、どのようにお考えですか?

矢島 私たち「和える」は、オンラインショップからスタートしましたし、例え資本が少なくとも、アイデアと実行性があれば今はITを活かして誰でもビジネスを立ち上げるチャンスがあります。ITが起業における資本家の優位性を変革したという点では、その恩恵を感じています。

ただ、インターネットでいろんな物事を見たり知ったりできる一方、何でもわかった気になってしまうのは怖いことだと感じます。ITを活用して業務を効率化した分、しっかり現場に足を運んで、現場の音、香り、空気感、あらゆるものを学ぶ姿勢が大切だと考えています。私たちは、商品そのものはもちろん、作る過程にこそ何かを生み出すヒントがあると考えています。また、現場を知ることが、お客様に商品の魅力をお伝えする際の強みにもなるのです。

――未来予想図の土台には「現場」が要素の一つとしてあるのですね。その予想図を描く際に、どのようなことを意識しますか。

矢島 今の時代は、あっと驚くような新しいことって、そうそうないと思っています。ビジネスモデルにしても、すでに先人たちが生み出したものでほとんど出尽くしたように感じます。だからこそ「新しい」にこだわりすぎるのではなく、「そこが欠けていた」という点に気づく感性が大切ではないでしょうか。

例えば、「泊まって、その地域の伝統や文化を感じられるホテルの一室をプロデュースしたい」と、何年も前から新しい事業の構想を考えていて、あちこちで口にしていたのですが、それは職人さんたちに会いに出張する度に、全国の様々なホテルに泊まる中で、そうした部屋が少ないと感じていたからです。ぼんやりした話だと流されてしまうので、どのような空間で、どんな家具を置いてという具体的なビジョンを言い続けて、機を待っていました。すると、知人から「紹介したいホテルの経営者がいる」というお話をいただいて、一気に事業の立ち上げに向けて話が進展したのです。

長崎の伝統や文化を感じられる調度品を揃えた、第1号“aeru room”長崎「 長崎の伝統や歴史を感じるお部屋」(写真提供:株式会社和える)

明珍火箸の音色を聴きながら、ゆったりと過ごすことのできる、第2号“aeru room”姫路「 明珍火箸 瞑想の間」(写真提供:株式会社和える)

それが形になったのが、2015年にスタートした“aeru room”という新規事業です。 第1号は長崎に誕生した「長崎の伝統や歴史を感じるお部屋」。長崎の出島で使われていた唐紙を天井に活用したり、平戸で醤油の輸出用に使われていた波佐見(はさみ)焼のコンプラ瓶をバスルームに使ったりと、長崎の歴史や伝統を泊まって感じられるお部屋です。第2号は姫路の「明珍火箸 瞑想の間」で、姫路の代表的な伝統産業品である明珍火箸の音色を聴きながら、自分自身を見つめ直す時間、ご夫婦やお友達とゆっくり語らう時間を過ごしていただける空間に設えました。

感性の言語化をめざして、伝統産業に科学のメスを

――起業から6年経ちましたが、今後の展望はどう考えていますか。

矢島 「伝統産業をつなぐ」ための仮説、検証、実証を繰り返し、「和える」自身も価値観をさまざまに変化させてきたのがこの6年間です。その変化を経て、最近は「つなぐ」という段階から、「つなぐための仕組みづくりをする」というステージに入りつつあると感じています。

その一環として、私ども「和える」の商品の魅力を、感性はもちろんですが的確に言語化して伝えていきたいと考えています。例えば、本藍染のタオルをお客さまにお勧めすると「藍は色移りするから……」と敬遠されることがあります。その際、この本藍は天然灰汁発酵建てですので、化学染料で染めた藍のように色落ちはしても、色移りはしにくいとお伝えすればご納得していただきやすいと思うのです。

オーガニックコットンを職人が染め上げた本藍染めシリーズは、思わず頬ずりしたくなるような肌触り

他にも、漆(うるし)のお箸でごはんを食べたときに、ご飯がよりおいしく感じたのですが、それはなぜなのか。まだまだ構想段階ですが、伝統産業品が五感に与える影響の研究など、様々な科学的な知見からも伝統産業の世界を言語化できないかと考えています。

――感性の経営を土台としていますが、その成果をどう数値化しようと考えていますか。

矢島 日本ではまだなじみがありませんが、私たちは「インパクトレポート」を出していきたいと考えています。インパクトレポートとは、簡単に言うと、経済指標では測りきれない価値を見える化するものです。具体的には、私たちの商品がある保育園の給食で使われると、1年で何人の子どもたちに日本の伝統に触れていただけるか、2年、3年経つと何倍に増えていく、といったようなレポートです。

「和える」は、利益追求が最終目標の会社ではないので、既存の経済指標では価値を測りきれないと考えています。伝統産業をつなぐために、会社として社会に与えるインパクトを見える化し、職人さんはもちろん、商品に触れるお客さまや「和える」に関わる人みなさんの幸せを最大化できるよう、これからも新たな事業に挑戦していきます。

TEXT:國府田 英之(POWER NEWS)

伝統産業を現代の感性に和えて、次世代につなぐ。 29歳女性社長の「感性の経営」Mugendai(無限大)で公開された投稿です。

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日本人はなぜ古文が読めなくなったのか ――ロバート キャンベル氏に聞く、原典をひもとき足元を見つめ直す魅力

文学作品や歴史文献を数多く生み出した江戸から明治期の日本。しかし、現代の日本人の大方は原文を読む能力を失い、存在すら知らずにいる。なぜそうなってしまったのか。 ニューヨーク生まれの日本文学研究者として知られるロバート キャンベル氏は、明治政府がすすめた言文一致などの国語政策によって、それ以前と以後の言語に大きな「断絶」が生じたことを指摘する。それによって国家の近代化に成功した半面、多くの古い文学や資料が読まれないまま埋もれる結果を招いたという。 キャンベル氏は東京大学総合文化研究科教授から、この4月に国文学研究資料館(国文研)館長に就任。日本や世界に散在する30万件もの資料のデータベース作りに取り組んでいる。誰にでも検索が可能で、「地震や飢饉といった災害の時代を生きてきた先人の知恵や経験を知ることで、現代人の足元を見つめ直し行く手を照らすことができる」と、その意義を語る。 「東日本大震災が研究者としての転機になった」というキャンベル氏に、古文をひもとく意義や、なぜ現代日本人は古文が読めなくなったのか、そして現代ネット社会の在り方などについてじっくり伺った。

明治維新で日本語は標準化され、過去との断絶が起きた

――米国出身のキャンベルさんが崩し字で書かれた日本の古い文学や史料を自在に読み解いていらっしゃるのを見ると、読めない日本人として「これでいいのか」と恥ずかしく、また残念に思います。

キャンベル 日本人は昔から文字資料を大事に伝承するメンタリティを持っていました。近世の日本は戦乱がなかったこともあり、文献や資料が実にたくさん残っています。私のような実証を重んずる研究者にとってはとてもありがたいことです。

しかし、明治維新の後に日本語が刷新され、過去の伝統からの断絶が生じました。日本が近代化・工業化し、国民国家に発展して行く過程で300もの藩は廃止され、方言に代わって標準化された共通言語を作る政策がとられました。これと並行するように書き言葉は古文から言文一致体へ、表記も崩し字から楷書体へと形を一変しました。 それが今日の社会の安定や経済的発展につながったことは事実ですが、他方で以前の文字文化と私たちを隔てる高い壁が生まれ、古文は読まれなくなってしまったのです。私の背後に平安時代の和歌の掛け軸がかかっていますが、流麗な崩し字で書かれているため、これを見た日本人の99%が「何が書いてあるのか読めない」と言います。

私が20代で九州大学に留学した時に、それまでハーバード大学で学んだ日本の1300年間の文学史は、江戸時代も含めて、ほんの氷山の一角でしかないことを知りました。特に江戸時代を見ると、大半の作品や資料は読まれることがなく、活字にもなっていません。私たちは「翻字」と言いますが、ワープロで打ったりして誰でも読める現代表記にされることなく眠っているのです。日本の「文学史」研究は、言わばすべてこれからだということもできます。

植民地を持つヨーロッパ諸国の先例に学んだ日本

――言文一致がもたらした影響は本当に大きかったのですね。

キャンベル そうです。明治30年代以降の学校教育では、見たり感じたりしたことをそのまま語るように書く言文一致の作文教育が進められていきました。日清戦争のような対外戦争では、全国から集まる兵士が号令ひとつで一斉に動けるように共通言語が必要でした。工場など労働の場も同じです。標準語を定めて普及させることは、明治政府にとって重要課題だったのです。

言語の標準化はヨーロッパに先例がありました。世界に植民地を持っていたので、現地の人に覚えさせる必要があったのです。岩倉使節団を始めとする役人や学者たちなどが大挙して訪欧し、やり方を学んできました。 井上ひさし氏の『國語元年』という劇作を読むと、そのあたりの事情がよく分かります。長州出身の文部省官吏である主人公が、「国語を統一せよ」と言う命令を受けて悪戦苦闘するコメディーです。舅と嫁は薩摩弁だし、使用人たちは遠野弁に津軽弁、江戸武家言葉に町人言葉などバラバラ。言葉は近代制度の根本であり、これを掌握することが明治政府にとっていかに重要だったかを、笑いとペーソスをまじえて表現しています。

その分、言文一致に対する抵抗勢力も大きかった。言文一致は東京帝大で学んだ坪内逍遥やエリート作家の山田美妙らがやっていることであって、自分たちには物足りないと感じている人たちも多く、大正・昭和に至るまで、凝った美文調で書く作家が絶えませんでした。泉鏡花はその1人です。 日本は近代化・民主化において際立って成功した国ですが、言葉の変化が激しくて、多くの人々がある世代を境にして、歴史に入って行けなくなりました。私はこの30年間、仲間と一緒に原典となる資料を発掘して活字にし、共有してきました。なかなか終わらない仕事ですが、それが魅力でもあります。

大震災で、物語は自分の気持ちを表す「乗り物」になると実感

――キャンベルさんは東日本大震災が研究者人生の転機になったと述べておられますが、具体的に説明していただけますか。

キャンベル 大震災の後、宮城県鳴子温泉にある2次避難所で、「ブッククラブ」を立ち上げ、数十人ほどの被災者の方たちと本を読む活動をしました。眼鏡をなくした方が多いので大きい活字の本を選び、かつ大震災で精神的に大きなショックを受けた人たちなので、推理小説のように根を詰めて読まねばならない本は避け、時間がゆっくりと流れるような短編小説を選びました。

その1つが幸田文さんの「台所のおと」でした。小料理屋を営む夫婦のほのぼのとした物語です。その本を真ん中に置いて、皆さんが人前では言えない喜怒哀楽や心の痛み、不安などを語り合い、気持ちがほぐれる場にしたいと思いました。寡黙だったのは1回目ぐらいで、あとは言葉が溢れ出るように、皆さんいろいろ語り出しました。 

そこで得たものは、私の方が大きかったと思います。文学はどんな力を持ち、人々にどんな救いをもたらすのか。万葉のもっと前の時代から、人々は歌の形をとってリズミカルに語り合ってきました。日本は文学でできていると言えるぐらい、世の中の仕組み、自然のこと、人のこと、すべて文学を通して整理し伝えてきたのです。 人々は物語の中で遊び、物語は自分の気持ちを表す「乗り物」になります。そのことを、私は被災者と本を読む活動をすることを通して実感し、感銘を受けました。

――みんなで本を読み合う習慣は、現代では一般的ではありませんが、昔はどうだったのでしょうか。

キャンベル 明治前半から1000年くらい昔までの間は、人々があちこちで文学などを音読し、周りの人が仕事をしながら聴くのはごく普通のことでした。書斎にこもって独りで黙読し内省をするという近代の形とは異なっていました。

幕末に来日した欧米の外国人の記録を読むと、当時の日本人が町のいたるところで声を出して文学を読み、漢文の素読をし、その声が街道に響いていたことが分かります。欧米でも古代から中世まで音読の習慣がありましたが、13世紀には失われていました。ですから彼らは日本にその習慣が残っていることを発見して驚いたのです。

古記録を読めば、災害や飢饉からどのように蘇生してきたかが分かる

――キャンベルさんは「歴史資料や文学を読んで当時の人々の姿を知ることは、現代に生きる私たちの足元を見直すきっかけになる」と述べておられます。具体的に説明していただけますか。

キャンベル 江戸時代の260年間は世界史でも稀有な戦争のない時代でしたが、災害や飢饉は何度もありました。人々の暮らしと自然の関わりは深く、米国のトランプ大統領は「パリ協定」からの離脱を宣言し、米政府内からも抗議の声が上がっています。温暖化が進めば気候変動や災害がひどくなるかもしれない。しかし、日本にはそれらを生き抜くための、大陸とは異なる人文知がありました。 東日本大震災の後、古地震の研究が盛んになって、これまで知られていなかった活断層が全国にあることが分かってきました。古記録を読めば、その地域で過去にどんな災害や飢饉が起き、どのように蘇生し復興して行ったかが分かります。人々は非常時に備えつつ社会を立て直してきました。例えば江戸の町は大小さまざまな火災に遭うたびに、新しく工夫して住居や店を建て替え、空き地を増やしながら町を蘇生してきたのです。

何気ない景色をいとおしく詠う橘曙覧の「独楽吟」

――文学の中では実際にどのような人文知が描かれているのでしょうか。

キャンベル 私の好きな人に、幕末に今の福井市で生まれた商人で国学者・歌人の橘曙覧(たちばな・あけみ)という人がいます。1868年、維新の年に亡くなりましたが、正岡子規がその歌を高く評価し、世に知られるようになりました。 自分の周りにある自然の現象を細やかに詠み、風物ではなく、自分の命につながるものとして写生的に描きます。歌集「独楽吟」は、52首すべてが「たのしみは」で始まり、「時」で終わります。例えば森林資源である薪を燃やし炭で火を起こすことを歌にした1首。

たのしみは 炭さしすてて 熾(おき)し火の 紅(あか)くなりきて 湯の煮(に)ゆる時

火鉢に炭を捨て置いていたら再び燃えて湯がことこと沸いたよと、思いがけずお茶を飲めることになった幸せをシンプルに詠っています。別の歌集からも1首。

夕煙 今日はけふのみ たてておけ 明日の薪(たきぎ)は あす採りてこむ

彼には妻と3人の子どもがいますが、夕飯の支度をするかまどの薪は今日の分だけあればよい、明日はまた里山に行って薪を採ってこようという歌です。一度にたくさんの物を採って、値が高い時に売るような投資とは違い、その日使う分だけ採って大切に使おうというのです。絵の題材にもよく使われる「漁樵問答」(ぎょしょうもんどう)の木こりの話を思い出しますが、曙覧は何気ない景色や状況をいとおしく詠っています。 年末になると行商が来て「召せ、召せ、炭はいらんかな~」と売り歩くという歌もあり、当時の燃料の流通システムを教えてくれます。

黒船、一揆、幕府は持ちこたえるのか、高まる時代の危機感

――自然の花鳥風月を詠う昔の歌とは、ずいぶん趣が異なりますね。

キャンベル 昔の人は「月が美しい、花がきれいだ」と歌いました。例えば吉田兼好は『徒然草』の中で、月はきれいに見える夜だけ愛でるものではなく、春は霞が垂れこめていても花を愛でるものだと書きました。つまり月や花は目の前になくても思いを馳せて愛でることが風流だと言うのです。

しかし、曙覧はそうではなく、1つの炭が燃え尽きずに湯を沸かすメカニズムや、今日1日だけの薪を採って「足るを知る」生き方や、目の前をよぎる行商の姿に目を向けるのです。曙覧は10年、20年後にこの何でもない風景が、当たり前ではなくなることを予見していたのかもしれません。1840~50年代は黒船が来航し、盤石だった幕藩体制も金属疲労を起こし、百姓一揆が頻発しました。福井藩主の松平春嶽は世界情勢に明るく、危機意識を持っていました。天保の大飢饉や大塩平八郎の乱が起こり、国学者らは幕府が持続するのはもう無理ではないかと考え、尊王攘夷や世直しの機運が高まっていました。 福井からは安政の大獄で刑死した橋本左内のような志士も出ました。曙覧は武士たちと交流する中で、同じような危機感を感じていたのだろうと思います。「独楽吟」からもう1首。

たのしみは 意(こころ)にかなふ 山水(やまみず)の あたりしづかに 見てありく時

山水とは自然のこと。その瞬間に生きている喜びの表現は、近代的な自然観に近い感じがします。

30万件の資料を誰でも自在に検索し利用できるようにする

――話は変わりますが、国文研(国文学研究資料館)には膨大な文献や資料があり研究者もいます。これを今後どのように活用していかれるのでしょうか。

キャンベル 今、私たちは日本や世界に散在している貴重な日本の文献を発掘し、整理して高度な画像データベースを作ろうとしています。平成35年を目標に30万点のデータベースにタグ付けをし、文字からも絵からも自在に検索可能にする計画です。みんなが同じ土俵からアクセスして、それぞれの立場で活用できるようにすることが事業の根幹です。昔の人々の知恵や感性に目を向けることによって、世界的に均一化されたこのネット社会の常識を揺さぶることができるのではないか。国文研にはそのタネがたくさんあると思います。

自分の主張を補強する情報だけ勧めるSNSのアルゴリズム

――「ネット社会の常識を揺さぶる」について、少し説明していただけますか。

キャンベル 新聞や雑誌の時代はもとより、テレビやラジオの時代は、チャンネルを変えると、自分とは異なる立場の人や意見が出て来るので、否応なくそれに立ち向かわなければなりませんでした。 しかし、今は「フィルターバブル」と言われるように、インターネットに登録しているサイトやSNSを好みに即して選択し、ニュースや情報を手に入れることができます。Facebook、Twitter、YouTubeなども、アルゴリズムによって、その人がすでに選んだ実績に近い追加情報を勧めてきます。自分の主張を補強するものだけを取り入れることは心地良いのですが、どんどん内向的で狭隘(きょうあい)な思考になります。そこからフェイクニュースが生まれて蔓延していくのです。 これは考えてみれば恐ろしいことで、いまFacebookやTwitterに抗議が寄せられています。インターネットは1990年代から、世界のどこにでも自由に行ける、すべての情報が手に入るという理想の下に発展してきましたが、WWWの現実は「World Wide 」とは言えなくなっています。

食品会社や天文学・宇宙科学の人たちとも「交信」

――その意味でも国文研が果たす役割は重要になりますね。

キャンベル 情報を発信するだけでは相手を見ていないという点で無責任であり、むしろ「交信」が大事だと思います。理系の人たちにも国文研のいろいろな引き出しを使ってもらい、新しい安心・安全を一緒に築いていこうと思っています。

例えば、江戸時代には多くの料理本が出版されました。その食材や保存法、調理法を元に、ある大手食品会社と共同で、レシピの再現を試みています。 また、国立極地研究所や京都大学との共同研究では、藤原定家が13世紀に京都の小倉山荘で見た「赤気(せっき)」と呼ばれる天文現象が、実はオーロラであったことを突き止めました。『明月記』に記録があり、これまでは彗星だと思われていたのですが、実は巨大な磁気嵐が起き、日本でもオーロラが見えたのです。鎌倉時代の世界観が変わるほどの成果でした。 今後もぜひ、こうした「交信」を広げていきたいと思います。 

TEXT: 木代泰之

日本人はなぜ古文が読めなくなったのか ――ロバート キャンベル氏に聞く、原典をひもとき足元を見つめ直す魅力Mugendai(無限大)で公開された投稿です。

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